11世紀のセルジューク朝(トルコ系)の侵入によって、ペルシャ絨毯にはトルコ文化の影響が及び始め、トルコ式の対称結び目など技術的融合が進みました。13世紀のモンゴル帝国の侵略はペルシャ美術を衰退させ、絨毯制作も停滞しました。しかしモンゴル支配下のイルハン朝で部分的に復興が始まり、征服者ティムール(14世紀末)は各地の職人を殺さず保護し、都サマルカンドへ移住させました。この結果、ペルシャの高度な織工たちが中央アジアに連行され、異国の地で宮殿装飾に腕を振るうことになり、技術とデザインが広域に伝播しました。ティムール朝時代には中国文化も絨毯文様に取り入れられ、唐草状の植物模様や竜・霊鳥など独特の図柄が新たに織り込まれました。また16世紀にはムガル帝国(インド)の宮廷がペルシャ人職人を招き、初期のムガル絨毯はペルシャ風の意匠を踏襲しました。戦争や侵略による人の移動は、このようにペルシャ絨毯の技術と美意識を遠方へ伝える役割も果たしました。
1501年に成立したサファヴィー朝ペルシャは、絨毯芸術にとって最盛期となりました。強力な中央集権と比較的安定した平和に支えられ、絨毯は宮廷の保護下で最高度に発達します。特に第5代アッバース1世(シャー・アッバース大王)はイスファハンに優れた職人やデザイナーを集め、王立工房で数々の名作絨毯を作らせました。この時代は「ペルシャ文化のルネサンス」とも称され、緻密なメダリオン文様など多くの優美なデザインが確立し、現在まで伝えられています。サファヴィー朝後期の絨毯には動植物をちりばめた華麗な図案のほか、文学や叙事詩の場面を描いたものも登場しました。例えばペルシャの国民叙事詩『シャー・ナーメ(王書)』に取材し、英雄ロスタムが龍を倒す場面など戦いの物語を織り込んだ絵画的絨毯も作られています。狩猟図(王侯の狩りの情景)も人気の主題で、戦争の勇壮さや平和な自然を象徴的に表現しました。平和な治世のもと、ペルシャ絨毯は外交贈答品にも用いられるほど品質を高め、まさに「床の上の芸術」として世界に名を馳せました。
18世紀初頭、サファヴィー朝末期に内紛が続く中、1722年にアフガン勢力がペルシャに侵攻し首都イスファハンを陥落させました。この侵略で宮廷工房は破壊され、ペルシャ絨毯の「宮廷の時代」は終焉を迎えます。国土が戦場となった影響で絨毯産業もほとんど停止し、その後の約半世紀〜1世紀にわたり絨毯文化は低迷しました。短命なアフシャール朝や内戦状態を経て、19世紀初頭に成立したカージャール朝(Qajar朝)は国土の再統一と秩序回復に成功し、比較的平和な統治が絨毯産業復興の機会をもたらしました。歴代のカージャール君主は伝統工芸の再興に努め、特にタブリーズの織工たちが中心となって19世紀後半に近代的な絨毯産業が再興します。欧米からの需要増加も追い風となり、各地で工房が新設され、西洋の嗜好を取り入れた新しい図柄も生まれました。一時は大量生産化による品質低下も見られましたが、古都カシャーンやイスファハンなど伝統産地が意匠供与する形で品質向上に努め、ペルシャ絨毯は産業として復活を遂げます。
20世紀に入っても、ペルシャ絨毯は戦争や政変の荒波を乗り越えて受け継がれました。第二次世界大戦後、パフラヴィー朝のレザー・シャーは国威発揚と伝統工芸振興のため1935年にイラン絨毯会社を設立し、絨毯制作を政府管理下で奨励しました。これは戦間期の不況や戦乱で職を失った人々の受け皿ともなり、都市部での生産拡大につながります。1979年のイスラム革命やその後の政情不安の中でも絨毯の生産は途絶えず、イラン・イラク戦争(1980–1988)の最中にも多くの織り手たちが伝統を守りました。戦火を避けて国内を移動した職人もおり、その結果デザインが変化した例もあります。たとえば西部ケルマンシャー州のセネ産絨毯では、イラク国境付近の住民が戦時中に内陸のビジャール周辺へ避難したため、以後の作品はビジャール産に似た厚手で堅牢な織りに変化しました。戦争による悲劇が技術と様式の思わぬ伝播をもたらした一例です。また、戦後の復興期には政府主導で被災地に絨毯工房の支部が設立され、地域の産業再生と伝統工芸の継承が図られました。現代まで続く幾多の困難にもかかわらず、ペルシャ絨毯はその物語性と芸術性を保ち続けています。戦争と平和の歴史が織り込まれたペルシャ絨毯は、異文化交流の証であり、苦難に対するペルシャ人民の不屈の象徴でもあるのです。