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ペルシャ絨毯の歴史と物語

サファヴィー朝時代の宮廷で絨毯制作が行われている様子を描いたイラスト。中央には豪華な王冠と金色の衣をまとった王が座り、その前に精緻な花柄メダリオン文様のペルシャ絨毯が敷かれている。右側では職人が大型の立て織り機で赤と青を基調にした細密な文様を織り、左側には幾何学模様の絨毯の上に座る人物が見守っている。背景にはイスファハン風の二階建てアーチ構造の宮廷建築が広がり、全体に温かみのある色調で歴史的雰囲気が表現されている。

時代ごとのペルシャ絨毯デザイン変遷史

ペルシャ絨毯のデザインは、長い歴史の中で幾何学的な素朴な文様から、華麗な植物文様へと大きく変遷しました。その背景には各時代の政治・文化の影響があり、織り上げられた模様や色彩には当時の美意識が反映されています。 古代〜中世:幾何学文様の時代 サーサーン朝など古代ペルシャでは植物や動物を織り込んだ華やかな絨毯も作られましたが、7世紀以降はイスラームの影響で幾何学模様や唐草模様(アラベスク)といった抽象文様が主流となりました。ティムール朝時代の細密画には星形・八角形を格子状に配した絨毯が描かれており、当時は直線的で繰り返しの図柄が中心でした。 サファヴィー朝:デザイン革新と花柄の隆盛 16世紀にサファヴィー朝が成立すると、王室の庇護で絨毯工房が整備され、高度な技術で洗練された様式が確立しました。この時代には大きな変革が起こり、大きなメダリオン(中央装飾)や流麗な唐草模様、草花で埋め尽くされた華麗な文様が登場しました。鮮やかな天然染料の発色も際立ちました。 ガージャール朝:伝統文様の復興と簡略化 19世紀後半、カージャール朝では欧米向けの大量生産と輸出ブームを迎えました。デザインも前時代の複雑な図柄が簡略化され、ヘラティー(魚と花の文様)やボテ(ペイズリー型唐草模様)など伝統モチーフを繰り返し配置する図案が主流となりました。新たな化学染料(アニリン)の導入で鮮烈な色彩表現も可能になりましたが、色落ちしやすく伝統の風合いを損ねる面もありました。 近代以降:伝統回復と現代デザイン 20世紀にはペルシャ絨毯の伝統が復興し、天然染料の再導入や古典文様の復権が進みました。同時に、新しいデザインも古来の技法で織り込まれ、伝統と現代性を融合した作品が生まれました。

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ルネサンス様式の石造りの広間で、玉座に座る青いマント姿の女性と二人の女性侍者、そして赤いアラベスク模様の布を掛けたテーブル越しに座る黒衣の男性を描いた絵画。床には幾何学模様のペルシャ絨毯が敷かれ、背景にはアーチとステンドグラス、遠景の港町が見える。

ペルシャ絨毯と西洋美術|ルネサンス絵画に描かれた東洋の美

ペルシャ絨毯(オリエント絨毯)は、現在のイランを中心とする地域で伝統的に手織りされる絨毯である。羊毛や絹糸を素材に、幾何学模様や草花模様など緻密な図柄と鮮やかな色彩を特徴とする。アナトリア(小アジア)やペルシャなど東方で生まれたこれらの絨毯は、14世紀以降にヨーロッパへ伝来し、美術品として珍重された。西欧の宗教画や肖像画にも描かれ、その豪奢さと異国性が象徴的に用いられた。 ルネサンス期(15~16世紀)の西洋絵画では、ペルシャ絨毯が場面を彩る重要な要素となった。例えばフランドルの画家ヤン・ファン・エイクは、「ファン・デル・パーレの聖母子」(1436年)や「ルッカの聖母」(1437年頃)で東洋の絨毯を精密に描写している。その絨毯には八角星や菱形を組み合わせた幾何学模様が施されており、デザインの源流はアナトリアやペルシャにあると推定される。絨毯は単なる背景ではなく、聖母や聖人の足元に敷かれて神聖さを示し、場面の荘厳さを引き立てる役割を果たした。 16世紀には肖像画など世俗的な場面にも東方の絨毯が描かれ、その所持は富裕層にとって地位の象徴となった。イタリアの画家ロレンツォ・ロットーの作品にも豪華な東洋絨毯が描かれており、その一つは赤地に黄色の唐草模様(アラベスク)を特徴とする。この文様は後に画家の名から「ロットー絨毯」と呼ばれ、16世紀アナトリアで織られた絨毯が当時ヨーロッパに流通していたことを示している。 当時の活発な東西交易(シルクロードや地中海貿易)により、オスマン帝国やサファヴィー朝ペルシャからヨーロッパへ絨毯など東方の産物がもたらされた。これらの交易路は物品だけでなく技術や芸術様式の伝播も促し、ルネサンス期の西洋美術に東洋文化を取り込む架け橋となった。こうして絵画に描かれたペルシャ絨毯は、東洋と西洋の文化が交差し融合した象徴となり、西洋美術に独自の彩りを添えた。

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モスク内部で白いターバンとベージュの衣をまとった男性が、アラベスク模様とミフラーブ文様が織り込まれたペルシャ絨毯の上で祈祷している様子。背景には青と金の花唐草模様の壁装飾と、礼拝方向を示す織り模様が並ぶ広間が広がる。

宗教とペルシャ絨毯|モスクの祈祷と聖なる文様

モスクと祈祷用絨毯の役割 イスラム教徒は一日5回の礼拝(サラート)の際、携帯用の祈祷用絨毯(サッジャーダ)を床に敷いて清潔な礼拝空間を確保する。絨毯の上端にはモスクの壁龕を模したアーチ型文様(ミフラーブ)が織り込まれており、敷く際にはそれをメッカの方角に向ける。このアーチは礼拝方向を示すとともに天国への門を象徴するともされる。祈祷用絨毯は礼拝後に丁寧に巻き取られ、大切に扱われる。 イスラム美術では偶像崇拝の禁止により人や動物の図像表現が避けられ、その代わりに幾何学模様や植物の唐草模様(アラベスク)が発達した。アラベスク模様は蔓草や葉が絡み合う有機的な図案を左右対称に連続配置し、同じパターンを際限なく反復できる特徴をもつ。この無限に連続する文様は、可視の世界を超えて広がる神の創造の永遠性と遍在性を象徴すると考えられている。幾何学と植物が調和した複雑なパターンは礼拝空間を神秘的に彩り、信徒に神の存在を想起させる効果もある。 ペルシャ(現イラン)では古来より絨毯織りが盛んで、7世紀にイスラム教が伝わると伝統の技法に宗教的用途が加わり祈祷用絨毯が生み出された。16世紀サファヴィー朝のシャー・アッバース1世は絨毯産業を保護・振興し、ペルシャ絨毯を国際的に発展させた。当時の礼拝用絨毯にはペルシャ語の詩文や奉献者の名が織り込まれ、オスマン帝国のスルタンへの献上品となった例も残る。地域ごとに絨毯の文様には特色があり、ペルシャ絨毯は精緻な花や唐草を基調に「生命の木」など永遠の命を象徴するモチーフを好む傾向がある。一方、トルコ(オスマン帝国)の礼拝用絨毯は礼拝壁を思わせるアーチの両脇に細い柱やランプを配したデザインが発達した。

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戦争と平和が交錯するペルシャ絨毯の歴史を描いた絵画風イラスト。中央の豪華な宮殿内部では王が玉座に座り、家臣や職人たちが周囲に集まっている。左側には馬に乗った兵士や絨毯を運ぶ女性たち、右側には瓦礫と煙立ち上る戦場跡で西洋人と地元の男たちが絨毯を広げる場面、さらに前景では二人の女性職人が大きな機織り機で絨毯を織っている。背景にはアーチ状の装飾と中庭の景色が広がり、赤と金を基調とした緻密な絨毯文様が床一面を覆っている。

戦争と平和が織り込まれたペルシャ絨毯の物語

11世紀のセルジューク朝(トルコ系)の侵入によって、ペルシャ絨毯にはトルコ文化の影響が及び始め、トルコ式の対称結び目など技術的融合が進みました。13世紀のモンゴル帝国の侵略はペルシャ美術を衰退させ、絨毯制作も停滞しました。しかしモンゴル支配下のイルハン朝で部分的に復興が始まり、征服者ティムール(14世紀末)は各地の職人を殺さず保護し、都サマルカンドへ移住させました。この結果、ペルシャの高度な織工たちが中央アジアに連行され、異国の地で宮殿装飾に腕を振るうことになり、技術とデザインが広域に伝播しました。ティムール朝時代には中国文化も絨毯文様に取り入れられ、唐草状の植物模様や竜・霊鳥など独特の図柄が新たに織り込まれました。また16世紀にはムガル帝国(インド)の宮廷がペルシャ人職人を招き、初期のムガル絨毯はペルシャ風の意匠を踏襲しました。戦争や侵略による人の移動は、このようにペルシャ絨毯の技術と美意識を遠方へ伝える役割も果たしました。 1501年に成立したサファヴィー朝ペルシャは、絨毯芸術にとって最盛期となりました。強力な中央集権と比較的安定した平和に支えられ、絨毯は宮廷の保護下で最高度に発達します。特に第5代アッバース1世(シャー・アッバース大王)はイスファハンに優れた職人やデザイナーを集め、王立工房で数々の名作絨毯を作らせました。この時代は「ペルシャ文化のルネサンス」とも称され、緻密なメダリオン文様など多くの優美なデザインが確立し、現在まで伝えられています。サファヴィー朝後期の絨毯には動植物をちりばめた華麗な図案のほか、文学や叙事詩の場面を描いたものも登場しました。例えばペルシャの国民叙事詩『シャー・ナーメ(王書)』に取材し、英雄ロスタムが龍を倒す場面など戦いの物語を織り込んだ絵画的絨毯も作られています。狩猟図(王侯の狩りの情景)も人気の主題で、戦争の勇壮さや平和な自然を象徴的に表現しました。平和な治世のもと、ペルシャ絨毯は外交贈答品にも用いられるほど品質を高め、まさに「床の上の芸術」として世界に名を馳せました。 18世紀初頭、サファヴィー朝末期に内紛が続く中、1722年にアフガン勢力がペルシャに侵攻し首都イスファハンを陥落させました。この侵略で宮廷工房は破壊され、ペルシャ絨毯の「宮廷の時代」は終焉を迎えます。国土が戦場となった影響で絨毯産業もほとんど停止し、その後の約半世紀〜1世紀にわたり絨毯文化は低迷しました。短命なアフシャール朝や内戦状態を経て、19世紀初頭に成立したカージャール朝(Qajar朝)は国土の再統一と秩序回復に成功し、比較的平和な統治が絨毯産業復興の機会をもたらしました。歴代のカージャール君主は伝統工芸の再興に努め、特にタブリーズの織工たちが中心となって19世紀後半に近代的な絨毯産業が再興します。欧米からの需要増加も追い風となり、各地で工房が新設され、西洋の嗜好を取り入れた新しい図柄も生まれました。一時は大量生産化による品質低下も見られましたが、古都カシャーンやイスファハンなど伝統産地が意匠供与する形で品質向上に努め、ペルシャ絨毯は産業として復活を遂げます。 20世紀に入っても、ペルシャ絨毯は戦争や政変の荒波を乗り越えて受け継がれました。第二次世界大戦後、パフラヴィー朝のレザー・シャーは国威発揚と伝統工芸振興のため1935年にイラン絨毯会社を設立し、絨毯制作を政府管理下で奨励しました。これは戦間期の不況や戦乱で職を失った人々の受け皿ともなり、都市部での生産拡大につながります。1979年のイスラム革命やその後の政情不安の中でも絨毯の生産は途絶えず、イラン・イラク戦争(1980–1988)の最中にも多くの織り手たちが伝統を守りました。戦火を避けて国内を移動した職人もおり、その結果デザインが変化した例もあります。たとえば西部ケルマンシャー州のセネ産絨毯では、イラク国境付近の住民が戦時中に内陸のビジャール周辺へ避難したため、以後の作品はビジャール産に似た厚手で堅牢な織りに変化しました。戦争による悲劇が技術と様式の思わぬ伝播をもたらした一例です。また、戦後の復興期には政府主導で被災地に絨毯工房の支部が設立され、地域の産業再生と伝統工芸の継承が図られました。現代まで続く幾多の困難にもかかわらず、ペルシャ絨毯はその物語性と芸術性を保ち続けています。戦争と平和の歴史が織り込まれたペルシャ絨毯は、異文化交流の証であり、苦難に対するペルシャ人民の不屈の象徴でもあるのです。

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サファヴィー朝の宮廷でシャーが臣下と会談し、背景で職人が大型織機でペルシャ絨毯を織る様子と、欧州の宮殿で商人が王侯にペルシャ絨毯を献上し、テーブルや壁を豪華に彩るペルシャ絨毯が飾られた場面を描いた歴史画。

王侯貴族とペルシャ絨毯|宮廷を彩った贅沢品

サファヴィー朝(16~18世紀のイラン王朝)の宮廷では、ペルシャ絨毯が単なる敷物を超えた威信の象徴とされていた。一方、欧州の王室や貴族もこの絢爛たる絨毯に高い文化的価値を見出し、競って収集した。 歴代のサファヴィー君主は各地に宮廷工房を設立し、最高品質の絨毯を織らせた。宮廷の庇護のもと織物芸術は16世紀に黄金期を迎え、多くの名品が生み出された。こうして織られた宮廷絨毯は金糸や絹糸も用いた緻密で華麗な意匠を誇り、美術工芸品として王権の威光を示した。宮廷の広間や謁見の場では壮麗な絨毯が敷かれて権威を演出し、モスクなど宗教施設に奉納される例もみられた。 サファヴィー朝の絨毯は外交贈答や東西交易を通じてヨーロッパにも伝来した。1603年、アッバース1世(サファヴィー朝のシャー)はヴェネツィア共和国の元首(ドージェ)に金銀糸入りの豪奢な絨毯を贈呈した。さらにポーランド王ジグムント3世は1602年、娘アンナの嫁入り道具として自国の紋章を織り込んだペルシャ絨毯を特注し、その記録が後にイラン製の証拠ともなった。 欧州の宮殿ではペルシャ絨毯が異国趣味あふれる高級調度品とみなされ、美術品同様に珍重された。室内では絨毯が床だけでなくテーブルや壁をも飾り、所有者の富と教養を示す象徴となっていた。ハプスブルク家でもサファヴィー宮廷製の大絨毯が離宮を彩った。この絨毯は「皇帝の絨毯」として現存している。

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シルクロードを通じて広まったペルシャ絨毯の歴史を描いた絵画。左で古代ペルシャの職人が幾何学文様の絨毯を手織りし、中央に赤と青の花柄メダリオン絨毯とラクダ隊のキャラバン、右にルネサンス期ヨーロッパの室内でオリエント絨毯の上に座る男女。背景にオアシス都市と交易路の風景。

ペルシャ絨毯とシルクロード|交易が生んだ芸術

ペルシャ絨毯はシルクロードという東西交易が生んだ芸術です。古代から続くシルクロードを通じてペルシャ絨毯の技術とデザインが東西に広まり、周辺地域やヨーロッパの芸術文化にも大きな影響を与えました。 ペルシャ絨毯は古代ペルシャ(現イラン)の遊牧民の生活から生まれました。古代から東西文明を繋いだシルクロード(絹の道)は、シルク以外にも様々な品や文化が行き交う交易網で、絨毯もその一つとして盛んに取引されました。シルクロード沿いには絨毯織りの伝統が帯状に広がり、その地域は「カーペット・ベルト」とも呼ばれました。 交易路を行き交う人々により、絨毯織りの技法や文様(デザインの模様)が各地に伝播しました。初期の絨毯は下絵(デザイン画)を用いず、幾何学文様(きかがくもんよう、直線的な模様)のみが母から娘へ口伝えで受け継がれていました。15世紀頃から都市の工房で図案を使った製作が始まり、曲線を生かした精緻なデザインの絨毯が発達しました。またイスラム世界で礼拝用絨毯の需要が高まったことも技術と意匠の発展を促し、宗教的な模様だけでなく華麗な装飾性の高い絨毯も作られるようになりました。さらに16~18世紀のサファヴィー朝(ペルシャ王朝)で成熟した高度な絨毯芸術は、インドのムガル帝国やトルコのオスマン帝国の絨毯にも影響を与えました。 中世末からルネサンス期(14~16世紀)のヨーロッパでは、宗教画や肖像画にオリエント(西アジア)の絨毯が描かれており、その豪華さが珍重されていたことがわかります。19世紀半ば以降、ペルシャ絨毯が本格的に欧州へ輸出され始めました。万国博覧会(世界博覧会)で紹介されたペルシャ絨毯はヨーロッパで大流行しました。それにより欧州の好みに合わせた新たなデザインも生まれました。

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世界最古のパイル織り絨毯である紀元前5世紀のパジリク絨毯(赤と藍の動物と騎馬戦士文様、トルコ結び、高密度織り)が博物館に展示され、その右側にサファヴィー朝時代(16〜17世紀)の花柄メダリオン模様のペルシャ絨毯と、それを手織りする職人の姿が描かれている。背景にはペルセポリスの石彫浮き彫りが薄く重なり、古代から近世への文化的連続性を象徴。赤・藍・金を基調にした写実的構図。

世界最古の絨毯「パジリク絨毯」とペルシャ絨毯の関係

世界最古のパイル織り絨毯とされるパジリク絨毯は、1949年にシベリア南部アルタイ山脈のパジリク古墳群から出土しました。永久凍土で墓室が凍結していたため腐敗を免れ、当時の鮮やかな色彩と緻密な模様がほぼ完全に保存されていました。大きさは約2m四方に及び、現在はロシアのエルミタージュ美術館に収蔵されています。 パジリク絨毯は上質な羊毛が素材で、天然染料により赤や藍色に染められています。織り方はパイル織り(結び目を織り込む技法)で、左右対称の二重結び(トルコ結び)が用いられています。結び目の密度は1平方センチあたり約36個に達し、総ノット数は100万以上と推定され、紀元前5世紀としては驚異的な精巧さを示しています。 パジリク絨毯の図柄構成は、中央に反復文様を置き周囲を複数のボーダーで囲む典型的な形式で、後世のペルシャ絨毯にも通じる伝統的デザインです。描かれた動物や騎馬のモチーフも古代ペルシャ美術と共通し、特に外縁部の騎馬像はペルセポリス宮殿の浮彫を彷彿とさせます。こうした類似性から、当初この絨毯はペルシャ(アケメネス朝)で製作されたと推定されました。さらに同じ墓からエジプト製の宝飾品や中国の青銅鏡も出土しており、紀元前5世紀には既に東西交易路を通じてペルシャ文化圏と交流があったことを示します。 パジリク絨毯は紀元前5世紀に既に高度な絨毯文化が存在していた証拠です。この伝統は後に中東や中央アジアに広まりました。特にペルシャではサファヴィー朝(16~17世紀)に絨毯芸術が頂点に達しました。

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2500年の歴史を持つペルシャ絨毯の変遷を描いたリアルな絵画。左には古代ペルシャの宮殿遺跡と『パジリク絨毯』風の動物文様、中央にはサファヴィー朝時代の赤・青・金を基調とした花柄メダリオン絨毯、右には現代イランの職人が赤い糸を手織りしている様子が細密に描かれている。

ペルシャ絨毯の2500年の歴史|古代から現代までの変遷

ペルシャ絨毯はイランで作られてきた手織り絨毯で、床敷きだけでなく壁掛けやテーブルクロスにも用いられ、その緻密な文様と高い品質によって世界に知られています。起源は紀元前まで遡り、2500年の歴史の中でデザインや技法は各時代の文化的背景を映しながら変化・発展してきました。 紀元前5世紀(2500年前)に織られたパジリク絨毯は現存最古の手織り絨毯で、高密度の織りにより精緻な動物文様が表現されています。アケメネス朝(紀元前6〜4世紀)の宮殿には豪華な絨毯が敷かれ、アレクサンドロス大王もその美しさに驚嘆したと伝えられています。ササン朝(3〜7世紀)のホスロー1世は長さ140メートルの豪華な『春の絨毯』を織らせました。 16〜17世紀のサファヴィー朝はペルシャ絨毯の黄金期で、シャー・タフマースプとシャー・アッバース1世のもと多数の名品が生み出されました。シャー・アッバース1世は都をイスファハンに遷し宮廷工房を保護して絨毯制作を奨励し、金銀糸を用いた豪奢な絨毯も生み出されました。この時期に花模様や中央にメダリオンを配した優美なデザインが完成し、後世の手本となりました。 カージャール朝(19世紀)で絨毯産業が復興し、19世紀後半にはヨーロッパでのペルシャ絨毯ブームによって生産が飛躍的に拡大しました。その後のパフラヴィー朝(1925〜1979年)でも王室が伝統文様の継承と品質向上を奨励し、レザー・シャーは国営絨毯会社を設立して製作と輸出を管理しました。 1979年の革命後も絨毯の生産は途切れず、現代でもイランは世界最大の絨毯生産国として世界市場の約3割を占めます。近年は機械織り品や他国製の安価な模倣品との競争が激しいものの、長い伝統に裏打ちされた芸術性と品質によって依然高い評価を受けています。

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